(別名:SUKIYAKI)
歌:坂本九
作詞:永六輔
作曲:中村八大
「上を向いて歩こう」は言わずもがな坂本九の大ヒット曲です。またタイトルは「SUKIYAKI」にかわったものの、まったくのオリジナルのまま全米で発売され、日本人初の世界ミリオンセラーとなったことでも有名です。米国の週刊音楽業界誌であるBillboard誌では、1963年6月15日に、週間ランキング第1位を獲得しました。
日本で生まれた曲が純オリジナルのまま全米1位を記録したのはこの「上を向いて歩こう」(SUKIYAKIとして)ただ1曲です。それどころか、アメリカで英語以外の曲が全米1位になったのは、これ以前にはわずか1曲だけで、現在まででも5曲しかありません。
私はなんとなく昔の日本の有名な曲だな〜としか思っていなかったのですが、この曲が世界で残した実績は想像も出来ないほど大きいのですね。実は、母に訊いてみたら、日本から地球の反対側にある私のふるさとボリビアでも、この曲は「SUKIYAKI」としてやはり1960年代半ばにとても有名になったそうです。音楽に国境はないですね。
インターネットで「上を向いて歩こう」について調べると、世界的に有名な曲であるのでやはり情報は豊富です。しかし当時の状況を調べると、細かいところははっきりとせず、エピソードの詳細(特に日本国外で起きたこと)になると様々な説があり、実際には何が真実なのか分かりにくい場合があります。もし不正確な点などありましたらご指摘くださいますよう、お願いいたします。
さて、前置きが長くなりましたが、まずは坂本九の懐かしい「上を向いて歩こう」のビデオから始めます。
■日本でのヒット
「上を向いて歩こう」が坂本九によって最初に歌われたのは、1961年に行われた作曲家・ジャズピアニスト中村八大のリサイタルでのことでした。 元々は中村八大が自身のリサイタルのために制作した楽曲でしたが、坂本九のマネージャーの推薦により、坂本九のシングル曲としてレコーディングされることになりました。
中村八大にとっては、作詞家の永六輔とのコンビによる「黒いはなびら」が、水原弘の歌で1959年の第1回レコード大賞を受賞し、新進の作曲家として注目を集めていた時期でした。いっぽう坂本九は、ダニー飯田とパラダイス・キングのヴォーカルとして人気者となり、ソロ活動に重点を置き始めていた頃でした。「上を向いて歩こう」は1961年4月に始まったNHK音楽バラエティ「夢であいましょう」の中で歌われ、永六輔作詞・中村八大作曲による「今月のうた」として発売されました。直後から大きな反響を呼び、数ヶ月にわたって放送、大ヒットしました。こうして、後に「六・八・九トリオ」と呼ばれるようになる、三人の最初の曲が生まれました。三人ともまだ20代のことです。当時の日本は高度経済成長の中、庶民の生活はまだ苦しかったものの、明日に向かって夢と希望をもてた時期でもあり、明るい笑顔と歌声の坂本九、シンプルなメロディーライン、そして明るさのなかにもどことなく悲しさを漂わすこの曲は、そんな世相にピッタリとマッチしていたのかもしれません。
当時の日本のレコード売り上げランキング(「ミュージック・ライフ」誌に掲載されていた国内盤ランキング)では、1961年11月から1962年1月まで3ヵ月にわたり1位を独走しました。売り上げだけをみれば相当なものでしたが、今とは比べ物にならないほど絶大な権威を誇っていた「日本レコード大賞」は、受賞どころか最終選考にも残っていません。この理由については意見は分かれますが、主な2つを挙げますと:
・坂本九の独特な歌い回しが耳に合わない、当時の保守的な日本の歌謡界において評価が高くなかったとこと。実は作詞の永六輔が、この曲のテスト盤を聞いて、「ウーヘフォ ムーフーヒーテ ハァールコフォ ウォウォ」の歌い方が気に入らず、激怒したと伝えられています。Elvis Presleyに憧れて歌い始めた坂本九自身は「Presleyのフィーリングで歌った結果」と後に語ったそうです。
・「上を向いて歩こう」は人気バラエティ番組から生まれたヒット曲であること。当時の歌謡界では演歌が強大な力を持っていたので、演歌以外のジャンルは基本的に色物とみられていました。バラエティ番組からでた、企画物の話題曲くらいにしか思われていなかったのかもしれません。
しかし、その後の展開により、この曲は日本でも再評価されることになりました。
■日本以外でのヒット
1962年に日本に訪問したイギリスのPye Recordsの社長が、「上を向いて歩こう」を聞いてすっかり気に入り、さっそく所属のKenny Ball & his Jazzmen に、ジャズにアレンジされたインストゥルメンタルバージョンをレコーディングさせました。しかし、このタイトルのままでは英語では発音しにくいと思い、思いついたのが日本で食べた「スキヤキ」だったそうです。「SUKIYAKI」は全英トップテンに入るヒットとなり、それがすぐにアメリカにも飛火しました。
アメリカではまずKenny Ball & his Jazzmenのレコードが発売されたものの、チャートの100位以内には入りませんでした。その後、1963年4月にワシントン州のラジオ深夜番組のDJ Rich Osborneが、自分の番組で坂本九オリジナルの「上を向いて歩こう」を「SUKIYAKI」として紹介したところ、曲が終わると同時にリクエストが殺到し、ラジオ局はヘビーロテーションでこの曲を流し始めました(このDJがどのようにこのレコードを手に入れたのかははっきりと分かりません)。この反響の大きさにより、Capitol Recordsが「SUKIYAKA」の題で全米発売に踏みきりました(発売当初は誤植によりこのタイトル。後に訂正された)。そして1963年5月、冒頭に述べた通り、全米No.1ヒットとなりました。Kyu Sakamotoの名は一躍、世界中の知るところとなり、Capitol Recordsの招きで渡米、人気番組The Steve Allen Showに出演するなど、全米1位になったスーパースターとして大活躍しました。さらにアメリカ国内の売り上げが100万枚を突破し、翌1964年5月15日には外国人としては初めて、Recording Industry Association of America, RIAA(全米レコード協会)のゴールドディスクを受賞しました(当時は100万枚以上がゴールドでした)。ちなみにこの頃、アメリカ国内の音楽雑誌の記事には手書きの「鋤焼(すきやき)」が「鍬焼(くわやき)」となったり、レコードジャケットの「坂本九」が「坂木九」となるなどの誤植が見られました。
このほか世界約70ヵ国で発売され、現在までの総売り上げは1500万枚以上とされています。
■主なカバー曲
精確な数は分かりませんが、「上を向いて歩こう」のカバーは数だけでなく、バリエーションも豊富です。日本語、英語、フランス語、ドイツ語、スペイン語、中国語、ポルトガル語、デンマーク語、クロアチア語等のカバーもあるようです。この中にイギリスやアメリカのチャートの10位以内に入ったものを紹介します:
1962年にイギリスのチャートで10位になったKenny Ball & his Jazzmenのインストゥルメンタルバージョンが一番最初に生まれたカバーです。
1981年にA Taste of Honeyというデュオが英語で(オリジナルとは関係ない失恋についての歌詞)収録したバージョンがU.S. Billboard Hot 100 chartで3位になりました。歌詞は、ヴォーカルのJanice-Marie Johnsonが書いたものです。彼女達は着物を着て、琴を引きながらパフォーマンスしたりしました。
1995年に4P.M. が、A Taste of Honeyの歌詞を使用したバージョンで、同じU.S. Billboard Hot 100 chartで8位になりました。
他にSelenaの Tex-mex バージョン、Daniela Mercuryが日本語で歌うSamba-reggaeバージョン等もあります(他のバージョンについてはビデオや精確な情報が見つかりませんでした。。。)。
日本のアーティストでは美空ひばりのカバーを始め、様々なジャンルのアーティストによりカバーがあります。調べてみたところ、以下のバージョンが見つかりました(アーティストの名前をクリックすると曲が聴けます)。
1973 小柳ルミ子、1991 近藤房之助、1993 金丸淳一、1995 サヨコ、1995 おおたか静流、1997 長渕剛、2005 RCサクセション、2008 岩崎宏美、2008 上原ひろみ
合唱バージョンのビデオも探してみましたが、多くはみつかりませんでした。一つだけ、創価合唱団バージョンを載せておきます。
■歌手坂本九について(ウィキペディアを元に編集)
1941年12月10日生まれ 。本名:大島九(ひさし) 。神奈川県川崎市出身。
坂本九は川崎市の荷役請負業「丸木組」の社長・坂本寛と妻・いく(旧姓:大島)の第9子(後妻であった実母にとっては3番目)として誕生したことから、「九」と命名されたという説があります。また、「九」の読みが「久」に通じるからとも言われています。
高校生の時に両親が離婚し、九など下の兄弟は母親に引き取られ、姓は坂本から大島に変わりました。この前後からElvis Presleyに憧れるようになり、Presleyの物まねで仲間内の人気者でした。
1958年日大横浜学園在学中の16歳の時、バンド・ボーイを経て、まだロカビリーバンドだったドリフターズに加入しました。8月の第3回日劇ウェスタン・カーニバルで本格デビューし、12月に水原弘の抜けたダニー飯田とパラダイス・キングに加入しました。1959に「何もいらない俺だけど」でレコード・デビューし、同時に普及し始めていたテレビにも積極的に進出しました。ニキビだらけの顔がトレードマークとなり、その親しみやすい庶民性と相まって、たちまち人気者となりました。その後、「すてきなタイミング」や「悲しき60才」などカバー曲をヒットさせ、「上を向いて歩こう」が本格的なソロ活動のスタートとなりました。「上を向いて歩こう」の海外でのヒットにより世界的に名前が知られたことで、国際的な活動も多くなりました。歌手としての活動のほかに、テレビの司会や、映画、舞台などでも活躍しました。 また、「あゆみの箱」運動、手話を広げる運動、福祉関係のボランティア活動に積極的に参加していました。
1985年8月11日、日本航空機墜落事故のため還らぬ人となりました。事故当日は大阪府にある友人の選挙応援として事務所開きに駆けつける途中でした。坂本九は通常、国内移動には必ず日本航空ではなく全日空を使っていましたが、当日は満席のため全日空便のチケットが手に入らず、招待側が仕方なく確保したのが日本航空123便でした。そのため、家族も乗客名簿が発表されるまで日本航空機に乗っているはずがないと信じていました。坂本九の不慮の死は、日本音楽界・歌手界にとって大きな損失と言われました。享年43歳でした。
その後もCMなどで楽局は使われ続け、いまもなお歌声は消えることがありません。特に、最後のレコードとなった「心の瞳」は中学校の教科書にも掲載され、合唱曲として知名度が上がり、現在では混声3部合唱として主に中学生に歌われています。また、「明日があるさ」は2000年8月より約1年半間にわたり、ジョージアのコマーシャルに起用されました。ウルフルズによるこのCMソングバージョンはオリコン1位を獲得し、出演する吉本興業所属タレント達によるRe:Japanが結成されるといった現象が起き、坂本九の楽曲が再び注目されるようになりました。
■最後に
歌詞の内容が一切通じなかったことにも関わらず、この曲は日本語のまま世界中で愛されてきました(しかも歌詞と全く関係ない「SUKIYAKI」というタイトル付きで。。。)。この曲は日本人が海外、それもかなり小さい町に行った際に図らずも耳にし、驚くことも多いようです。つまり、世界一有名な日本の歌かもしれません。
最後に、2004年の「坂本九音楽祭 夢であいましょう あいたかった」という公演で歌われた「上を向いて歩こう」で終わります。(NHKで放送。黒柳徹子、永六輔、坂本九ファミリーをはじめ、布施明、南こうせつ、平井堅、河村隆一、河口恭吾、RAG・FAIR、高嶋チサコ、BABY BOOと中山眞美等出演)